英語ができなかったプッチーニ
プッチーニは英語がわかりませんでした。
ですが、
ロンドンで観た
ベラスコの戯曲「蝶々夫人」の舞台に
深く心を揺すられたのでした。
彼は、
人間を感動させる明快なストーリーこそ
オペラにふさわしいと、
すぐさまオペラ化の準備にとりかかりました。
プッチーニは
かなりの新しいもの好きでした。
車、ボート、蓄音機、鉄砲・・・
そして
かなりの凝り性でもありました。
作曲にあたり、
プッチーニの中で
まだ見ぬ東洋の小さな国への興味が、
盛り上がりました。
ミラノで川上貞奴巡業公演を見て、
自分にとっては新しい東洋の女性像に
取り憑かれ
盛り上がりました。
自分のモーターボートに
蝶々さんの名前をつけたぐらい
凝ったのです。
日本の風俗や音楽も
徹底的に研究するため、
資料収集に没頭しました。
こうして、
「越後獅子」「君が代」「さくらさくら」
「お江戸日本橋」「宮さん」「かっぽれ」
「お江戸日本橋」「宮さん」「かっぽれ」
これらの曲が、巧みに
そして、モザイクのように
組み込まているのが
オペラ「蝶々夫人」です。
では、プッチーニはあの時代、
どうやって遠い日本の資料を
収集していったのでしょう。
そこはまた。