スキップしてメイン コンテンツに移動

貞やっこ・・・

東京日本橋にあった両替商「子熊」。
没落により「子熊」の娘は
7歳で芸妓置屋へ養女に出されました。
という娘です。

貞は 才気と美貌により
伊藤博文や西園寺公望から
贔屓にされたそうです。

貞は自由民権運動の
志士 川上音二郎と結婚しました。

川上音二郎は貞と共に
現代劇一座を立ち上げ、
アメリカ、ヨーロッパへと公演の旅に出ました。 

パリ万国博覧会でも
一座は公演しました。
貞奴は当時60歳でしたが、
円熟期にある艶やかな舞台姿は
ヨーロッパに日本ブームを巻き起こしました。

ロダン、ドビュッシー
青年ピカソ・・・
ジャポニズム文化との鮮烈な出会いでした。

プッチー二も
川上一座のミラノ公演に
足繁く通ったようです。
一座を見て四日後に書いたのが
『蝶々夫人』
一幕、蝶々さん登場場面の音楽です。

ここの音楽には
「越後獅子」の旋律が織り込まれています。
「越後獅子」は
川上一座の「袈裟」という出し物で
貞奴が舞った音楽です。

ということは、

日本に一度も訪れたことのないプッチーニの
蝶々さんのイメージは、
60歳の貞奴から描いていった
ということになるのかも知れませんね。

頑張れ!中川‼︎ 笑

第四回軽井沢森の音楽祭2019

8.25 15:00

脇田美術館






このブログの人気の投稿

ドーリアの死がしめすもの

少女ドーリアは プッチーニの身の回りの世話に雇われました。  ドーリアは  幸せ薄く地味な顔立ちで 一生懸命プッチーニのお世話をしました。  やがてプッチーニは ドーリアを 愛した・・・  のだと思います。  ドーリアにおいては、 献身的な愛が大人の愛に 変化したかどうか それはわかりません。 プッチーニは  尽くしてくれるドーリアの愛に 満足していました。  そんな二人の関係に、 妻エルヴィーラは 病的な程に 嫉妬しました。 エルヴィーラは ドーリアを解雇し、 村に居られない程の 不名誉な噂を流しました。  ドーリアは自殺をしました。  ドーリアはエルヴィーラによる裁判で   検死解剖にかけられました。 ドーリアは処女である事が判明しました。 それでもエルヴィーラは  夫の心を許しませんでした。 ミラノから 責めて責めて責めまくる手紙を 送り続けました。 「私はただもう前進したくて前進したくて・・・」  プッチーニは友人への手紙に  そう書いて送っています。 「蝶々夫人」の後 次の作品まで7年もの間 プッチーニは前に進むことが出来ませんでした。 プッチーニの純粋ゆえの恋愛は、 軽率さがちょっと問題なのと、 想像力の欠如が かなり問題ですね。 女性に愛されることを求めながら   女性の真剣さには 思い至らない。  まるで蝶々夫人のピンカートン。 プッチーニが「蝶々夫人」を作曲している時、 ドーリアはきっと側で聴いていたでしょうね。 蝶々夫人の自死が  美しい音楽となって天に昇ってゆくのを。  ドーリアは  その音楽と共に  天に昇ろうとしたのでしょうか。 第四回 軽井沢森の音楽祭2019  中川座 座長中川京子  脇田美術館 2019.8.25 15:00
第5回軽沢森の音楽祭2021 2021.11.3(水)文化の日 軽井沢倶楽部有明邸 https://www.karuizawamorimusic.com/  

音楽学校など、所詮は

「音楽学校など、所詮は西洋の芸者を養成するところだ!」 と、父親は大反対でしたが、 父の選んだ人と結婚をするという条件で、 環は東京音楽学校へ通うことを許されました。 (この結婚は後に離婚) 東京音楽学校での環の声楽の先生は ドイツでヴァイオリンとピアノを習得して帰国した 幸田延教授(幸田露伴の妹)と、 ヴァイオリン教師のアウグスト・ユンケル教授でした。 声楽の教師がいなかったのです。 二人の教授からの教えは、 曲の解釈やドイツ語の発音に留まるものでした。 つまり 三浦環は独自で発声法を開発したのです。 その後ベルリンで リリー・レーマンに就き、 31 歳の時、 ロンドンで『蝶々夫人』を与えられました。 環の蝶々夫人は、 繊細な日本女性の悲劇性を見事に演じ、 連日大盛況だったそうです。 環はアメリカに渡りました。 1 年間に 100 回『蝶々夫人』を歌うという契約を結び、 全米を回りました。 それは 10 万ドルという高額な契約でした。 (恐らく 100 回というのは、全てが全幕公演では無いと思われます) 1920 年のローマでの公演は プッチーニが鑑賞しました。 『このオペラはあなたのために作られたようなものです』 プッチーニは環を屋敷に招待しました。 そのプッチーニ邸にあった日本の音楽資料一式は、 前にブログに書きました大山久子公使夫人が 手に携えてプッチーニに届けたものです。 そのイタリアの大山久子宛に 日本から せっせと楽譜や資料を送り続けたのは 先に述べた文豪幸田露伴の妹 幸田延教授でした。 プッチーニは環に 『これからもあたなだけの蝶々さんを演じて下さい』 と言ったそうです。 環はこの言葉に励まされ、 他の歌手の「蝶々夫人」を見ないという信念を通しました。 三浦環は生涯 「蝶々夫人」を客席で見ることは 無かったそうです。 軽井沢森の音楽祭2019 2019.8.25 脇田美術館 中川座 座長中川京子