第5回軽沢森の音楽祭2021 2021.11.3(水)文化の日 軽井沢倶楽部有明邸 https://www.karuizawamorimusic.com/
「音楽学校など、所詮は西洋の芸者を養成するところだ!」 と、父親は大反対でしたが、 父の選んだ人と結婚をするという条件で、 環は東京音楽学校へ通うことを許されました。 (この結婚は後に離婚) 東京音楽学校での環の声楽の先生は ドイツでヴァイオリンとピアノを習得して帰国した 幸田延教授(幸田露伴の妹)と、 ヴァイオリン教師のアウグスト・ユンケル教授でした。 声楽の教師がいなかったのです。 二人の教授からの教えは、 曲の解釈やドイツ語の発音に留まるものでした。 つまり 三浦環は独自で発声法を開発したのです。 その後ベルリンで リリー・レーマンに就き、 31 歳の時、 ロンドンで『蝶々夫人』を与えられました。 環の蝶々夫人は、 繊細な日本女性の悲劇性を見事に演じ、 連日大盛況だったそうです。 環はアメリカに渡りました。 1 年間に 100 回『蝶々夫人』を歌うという契約を結び、 全米を回りました。 それは 10 万ドルという高額な契約でした。 (恐らく 100 回というのは、全てが全幕公演では無いと思われます) 1920 年のローマでの公演は プッチーニが鑑賞しました。 『このオペラはあなたのために作られたようなものです』 プッチーニは環を屋敷に招待しました。 そのプッチーニ邸にあった日本の音楽資料一式は、 前にブログに書きました大山久子公使夫人が 手に携えてプッチーニに届けたものです。 そのイタリアの大山久子宛に 日本から せっせと楽譜や資料を送り続けたのは 先に述べた文豪幸田露伴の妹 幸田延教授でした。 プッチーニは環に 『これからもあたなだけの蝶々さんを演じて下さい』 と言ったそうです。 環はこの言葉に励まされ、 他の歌手の「蝶々夫人」を見ないという信念を通しました。 三浦環は生涯 「蝶々夫人」を客席で見ることは 無かったそうです。 軽井沢森の音楽祭2019 2019.8.25 脇田美術館 中川座 座長中川京子